ばあちゃんが亡くなった時の話

どうやらお天道様の長い正月休みも終わったらしく、札幌もひさしぶりにまとまった雪が降りました。久々の除雪で肩が痛めのフジカワです、こんにちは。軽い雪は除雪は楽でいいんだけど量ばかり多くて体をたくさん動かさないといけません。スキー場の軽い雪は大好物なんですけどね。

去年ばあちゃんが亡くなりました

昨年の話ですが、ばあちゃんが亡くなりました。
最後は肺がんを煩っていたのですが、90歳を超えていたので、まぁ大往生でしょう。
特にみなさんに伝えたいことはないのですが、僕なりの整理と興味深かったことをだらだらと書き記しておきます。

※予想以上にダラダラになりました。いつも以上に中身の無い話なので、小見出しがおもしろそうなのだけでも拾い読みしてください。

河童みたいな手

ばあちゃんは身体の小ささに比べて手がとても大きく、僕のそれと比べても遜色ないほどでした。
それはずっと半農半漁でじいちゃんの手伝いをしながら僕の父を含む4人の子供を立派に育て上げた「現場の手」、カッコイイ手でした。病気を患った後はガリガリに痩せていたため、その大きな手も骨と皮だけみたいな感じだったのですが、そんな手を見て「河童みたいだなぁ」なんて一人思ったりしてしていました。

「で、あんた誰だっけ?」って

個人的にばあちゃんとのちょっと面白い思い出があって、まだ入院していなかった数年前、90歳を越えたあたりからちょっと記憶力が怪しげになってくるんですね。なので僕のこともよく分からなくなってるらしく、ちょっと話をして話題が落ち着くとすぐに「で、あんた誰だっけ?」って毎度聞かれるんです、数分置きに。最初はイラッとしてたけど途中からコントみたいに楽しくなってきちゃって、爆笑しなながら「○○の息子の××だよ!」とか「□□の息子の△△だよ!」とか入れ替わり立ち代り説明していました。結局どれも最後まで覚えてもらえませんでしたけどね。
「で、僕は誰?」って最後に聞いたら「誰だっけ?」って。

最期はホスピスで

じいちゃんが亡くなった後、ばあちゃんは一人で田舎に暮らしていました。が、体調を崩したのをきっかけに最後の一年は札幌の娘(僕の叔母)のところに。さらに最後の半年は札幌市内のホスピスにおりました。
ホスピスでの生活は基本寝たきりではありましたが僕が子供達を連れて見舞いに行くと目を覚ましていることもあり、手を握ったり、話をきいて頷いたり、僕らが帰る時には手を振ってくれるときもありました。後から聞いた話では他の親戚が行くときには大体寝ていたそうです。孫が来ているときは気合入れていたものと思われます。

水だけで半年

一時期は肺がんの治療のために点滴をしたり強い薬を飲んだりしていたのですが、ある時期から治療するのを止めました。
治療は高齢のばあちゃんにはずいぶんと辛かったみたいで、担当医と親族での相談のうえで治療を止めるという選択をしたことをばあちゃんに伝えたとき、とてもほっとした表情をみせたそうです。もちろん治療を止めた後は「もう長くないかもしれない」という状態を覚悟していたのですが、ばあちゃんはひたすらに水だけ飲みながらベッドの上でまさかの半年を過ごしました。担当医もびっくりしていたそうです。

人に迷惑を掛けない人

人に迷惑を掛けないことを信条にしていたような祖母は、最後までそれを貫き通しました。
亡くなる一ヶ月位前には「そろそろ危ないからね」という状態になりそれとなく準備期間を周囲に与えつつ、最期を迎えたのが金曜の夜。しかも個人的には土曜日は仕事の割合の方が高いにも関わらず、見事に土曜日が休みの週末にピンポイントで合わせてくるというぬかり無さ。そのまま土曜日に通夜を行い、日曜日の朝から告別式。夕方には解散、という素晴らしいスケジューリング。意外にも(失礼!)ばあちゃんに最後の挨拶をしに来てくれた方は大勢おり、特に北海道外から来てくれた方にとっては負担の少ない日程だったと思います。
さすがばあちゃん。

葬儀屋は一人

幾つかある驚いたことの一つなんだけど、お寺に来ていた葬儀屋はまさかの一人。彼がやってたのは納棺、霊柩車の運転、祭壇のセッティング、見ていた限りそんなところ。僕が知っている葬儀だとやれ会場の案内やら、仕出しの準備やら、式場の準備やら、花の運搬やらとたくさんのスタッフが動き回るのに。
ではそういった作業は誰がやるのかというと、集落の人達が集まって自分たちでやるんです。
記帳受付から香典の管理、頂いたお供え物のレイアウトから会場作りまで全てです。

近所のおばちゃんおばあちゃん

特にめざましい活躍を見せたのは近所のおばちゃん&おばあちゃん。
僕がばあちゃん家に到着したのが土曜の午前。親戚に「クルマの運転大変だったろう、お腹すいてないかい?ご飯食べなさい」とか言われて出てきたのがカレー。
お隣のおばあちゃんが大鍋で作って持ってきてくれたそうです。曰く「あんた達は忙しくなるんだからこういうことは周りに任せなさい」との事らしい。たしかにひっきりなしに狭いばあちゃん家に人が押し寄せる。仏壇の前に横たわるばあちゃんに手を合わせてもらい、顔を撫でてもらい、最後に僕らはお悔やみの言葉を頂く。そしてみんななぜか食材をおいていく。ばあちゃんもそうだったけど、周りも農家ばかりだから、やれ米だ、やれ茄子だ、やれピーマンだ、と出荷用の30キロのクラフト袋で持ってくる。そして僕やいとこの孫連中はそれらをせっせと寺に運ぶ。
寺では何をしているか?寺に併設された厨房でおばちゃん&おばあちゃん(比率2:8、ほぼおばあちゃん)が、届いた食材をせっせと調理しているのです。10人以上20人未満くらいのベテラン主婦達が入れ替わり立ち代りで戦場のごとく次から次に食材をさばいていきます。
そうこうしている間にばあちゃんの家で挨拶をした弔問客達が少しずつ寺へ移動を開始し始めます。すると今度は手慣れた手つきで長いテーブルを寺の大広間に並べ始め、厨房で作っていたご飯をテーブルに並べ始めます。この日の通夜に訪れたのは約200名。その全員がそこでベテラン主婦達のご飯を美味しくいただきました。
ご飯が食べ終わると次は椅子。弔問客はお年寄が多いので長時間の正座は難しいんですよね。なのでずらっと椅子を並べてくれる。で、その後は休む間もなくパッと着替えてそのまま通夜にも出席。
しかし話はそれだけでは終わりません。通夜ってほら、線香を絶やさないように親族達でお酒飲みながら起きてるじゃないですか。僕もそれにかり出されて出来るだけ起きてるわけですよ、みんなが寝ている寺の大広間の片隅で幾つかのテーブルを出して若い人達でお酒飲みながら線香を絶やさぬようにします。で、四時過ぎくらいになるとこんどは年寄り連中が起き始める。そしたら選手交代。若者連中は順々にふとんに潜り始めます。が、ものの一時間もしないあいだにまた厨房が騒がしくなり始めます。今度は朝ご飯です。通夜前の夕食だけでは終わらず、翌朝の朝食も寺併設の厨房で作り始めるのです。朝からご飯と味噌汁、鮭やら煮物やら色々と。手作り沢庵が美味しかったです。

「フジカワのかあさん」呼ばわり

脈絡無くつらつらと続けますが、集落のコミュニティーの濃さというか距離感を感じさせたのが住職の説教。
今の時代、故人とお寺の関係ってそれほど深くないですよね。下手したら故人が生きてる間に住職と会話することすら珍しいくらいだと思います。すると住職は会話をしたことのない人の生前について話をするわけです。「故人は○○に生まれ…」とか言って。
ところが今回、住職はおもむろに「えー、フジカワのかあさんはー」と始めたわけです。故人を「かあさん」呼ばわりですよ。というのも、ばあちゃんはけっこう頻繁に寺に通ってたそうなんです。一人暮らしの住職にご飯持っていったり、別に何をするわけでもなく寺に行って住職とお茶飲んでたりしたそうです。だからもう「住職と檀家」というよりむしろ「ご近所さん」という間柄。住職も「私も残念でなりません」とか「私も寂しくなります」とか一人称で言ってるの。ばあちゃんと集落のみなさん、集落のみなさんと住職、そして住職とばあちゃん、一から十までそんな距離感なんですよね。

身近にある「死」

ばあちゃんがそろそろ危ないという時期にお見舞いに来てくれていたばあちゃんのお隣さんと病院で遭遇した時のこと。
「あらー、○○ちゃん(僕の父)のとこの息子さんかい?おーっきくなっだねー!昔はこーんなに(以下略」とか良くある儀式を切り抜けた帰りがけに「なーんも心配しないで連れてきなさい。(集落の)みんな(は)フジカワのかあさんには世話になってるんだから。ちゃーんと面倒みるからねー」なんて言って頂く。てっきりばあちゃんの病気や病状について聞かされていないのかと思っていたのだけれど、葬儀の時に親から聞いたところによるとお隣さんはばあちゃんの病状や残る時間が長くない事はその時すでに知っていたらしいんです。つまり、「連れて帰る」というのは「生きて戻る」ということではない、「面倒をみる」というのは「生活の世話をする」ということではない、つまり「集落のみんなでちゃんとばあちゃんを弔うから安心しなさいね」ということだったのです。
ばあちゃんがまだ生きている間に「亡くなったあとの事について『心配しなさんな』と親族に話をする」という、場合によっては相当失礼にあたるような事も普通に言えちゃうくらい、ばあちゃんの集落では「死」というのもまた、身近に存在しているものなのでしょう。

ばあちゃんは本当に幸せだと勝手に思うことにする

ばあちゃんが幸せだったかどうかはばあちゃんにしかわかりません。戦争を経験し、貧しい時代に生き、同じ集落の家に嫁ぎ、集落からほとんど出る事もなく、それでも立派に子供達を育て上げた。ばあちゃんが笑っている顔はあまり記憶にない。あるのは台所に立っているか、畑にいるところだけ。
でも最期にこうやってたくさんの人に見送られて、ばあちゃんは本当に幸せだと勝手に思うことにする。みんなが家まで会いにきてくれて、みんなに見送られる。みんなが作った野菜や米をみんなで調理してみんなで食べて、みんなでお酒飲んで、みんなで寝て。ばあちゃんが弔ってきた同じ集落の人達の子供や孫達に今度は自分が弔ってもらう。挙げ句住職にまで「寂しくなる」と言わせる始末。ばあちゃん幸せじゃん。

金融機関の口座はカードを作っておきましょう

いきなり現実的な話に飛ぶけど金融機関の後始末の話。本人不在の場合は通帳と印鑑だけでは預貯金を引き出すことが出来ないそうです。引き出すには相続権がある全ての人間(今回はばあちゃんの子供達)の直筆のサインと捺印が必要と。これが大変。書類をリレー形式で郵送しながら書類をひとしきり集めなければなりません。おまけに相続権をもつ人間が他にいないか、謄本も一緒に提出。これはばあちゃんが住んでた町役場にいかなきゃ手に入りません。そりゃ日本中に休眠口座が溢れてるわけですよ。手っ取り早い解決策としてはキャッシュカードもちゃんと用意しておくことですね。

名前が違った

で、提出用の謄本で判明したらしいのだけど、僕の父や叔父達を含めて沢山の人達がひいばあちゃんとひいじいちゃん(彼らにとってのばあちゃあんとじいちゃん)の名前を間違えて覚えていました。「いさ」と「さくたろう」と覚えていた名前が、実は「”お”いさ」と「さく”じ”ろう」だったとの事。生前、稀に正しい方の名前で手紙が来てたこともあったそうですが、正しいほうの数が圧倒的に少なかったため、そっちが間違ってるんだと思ってたらしいです。また「”お”いさ」に至っては「”お”さとう」とか「”お”松(前田利家の妻)」みたいな感じで「いさ」の丁寧版だと思ってたそうです。本人達も生前は「いさ」「さくたろう」で通してたらしいのだけど、本人が自分の名前を間違えて覚えてるってどういうことなんでしょうか。役所への手続きを間違えたのか、どこかで覚え間違えたのか、そもそもこの場合の「正確な名前」とはなんなのか、とにかくすごい時代だったんだな、という想像しかできません。

形見分け

だらだらと書きましたが最後に。
僕は今回の形見分けで鍬を貰ってきました。
雪が解けたらばあちゃんにもらった鍬で裏庭をいじりたいと思っています。
ばあちゃんがジャガイモやトマトやキュウリの畑を耕すのに使っていた鍬で、僕も何か作ってみようかなと思います。

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