教育における体罰のありかた

なーんて小難しいタイトルを付けちゃったフジカワです、こんにちは。
「体罰は教育ですか?」―オフコース、イエス!!! – 女教師ブログ
というエントリーを読んでしまったもので。

体罰とは

体罰とは「何かを理解させるために肉体的苦痛を与えること」とここでは解釈します。
「理解させるのが目的」という部分で単なる「暴力」とは明確に線引きをしておきます。
では、同じ目的のために「精神的苦痛を与える」のは体罰とは言わないのでしょうか?
たとえば
・本人が「恥ずかしい」と思う何かをさせる
・肉体的痕跡やキズは残らないが、心にキズが残ることを言葉等で与える
など。
あ、体罰 – Wikipediaによると精神的なものも「体罰」として定義づけられているようです。

止めるなら両方

いずれにせよ厳しいですね。
いじめの場合は子供の頃は前者ですが、大人になると後者になります。ネチネチと。
どちらにしてもやっぱり辛い。どちらかというと個人的には後者のほうが悪質な感じすらあります。

ま、ここでは「いじめ」の話はさておき、教育における「体罰」をどうするかですが、
禁止にするならどちらもすべきでしょう。肉体的なものも、精神的なものも。
いずれにせよ「体罰」には違いないですから。

精神的暴力よりも良いと思うのは僕だけか?

さて、ここで問題。
この2つの体罰を完全に排除した教育現場で、健全な教育活動は行えるでしょうか?
完全に意見が分かれる問題だけれど、僕の意見は否。
そんな環境で教育が出来るわけがない。
だって子供なんだから。
自分の子供の頃を思い返してみても、体罰無しで健やかに育つなんて無理。
無論そんなもの無くたって爽やかに軽やかに育っていく資質を持つ子供だって沢山います。
というか大多数がそうかもしれません。
でも僕は無理。自信がある(どんな自信だ)。
そんな子供達だって沢山いるはずだ(ん?僕だけ?)。

というかむしろ、肉体的体罰はいいと思う。精神的なそれよりは。
だって、明確にわかるもん。「あ、叩かれた」「あ、蹴られた」って。
だから子供は理由を考えるし、直す。
逆に精神的体罰って、わかんなくない?
怒るときに、本人に理由を言ってから精神的苦痛を与えたりはしないでしょ。
っていうか、怒ること自体が「精神的苦痛を与えることになる」と言われたら、怒れもしない。

精神的苦痛って、理不尽なこと言ったり、でも大人の言うことだから従っちゃったり、
大人だけにできる高度な手法でなんとなくその子が傷つくような空気を作り上げたりできる。大人だから。
でも本人は「気のせいかもしれない」、「自分の考えすぎかもしれない」って思う。
明確な理由と証拠がないから、「怒られてる」という実感を得られないまま
得体のしれない何かのせいで精神的に消耗していく。

肉体的な体罰を与えることができなくなると、大人は次の方法としてそんなやり方をし始める。
そんなことよりも、「バシーッ」とやって、「次から気をつけなさい」って、さらっと流した方が良いと思う。

たのむぞ息子よ

大人になったら感謝すると思うんだけどなぁ。
だって大人になったらそんなに真剣に怒ってくれる人いないもん。
駄目だってことを言ってくれる人すらいない。
例の精神的な追い詰めで
「あなたはここには必要ない」
「あなたの居場所はここにはない」
って暗に伝えるだけだもんね。

今、「体罰禁止」の環境で育った子供達が大人になったらどういう教育を次の世代にするのだろうか。
まぁ、僕は自分の子供が悪いことして、必要があれば躊躇無く体罰するけどね、多分。
もちろんそんな状況が必要になるような育て方はしないように努力するし、
残念ながらその必要が出た場合は自分の育て方が悪かったということも反省する必要があります。そしてそれは育てる側の役目であり、自身への教育です。

将来、息子に仕返しされたらそれはそれで甘んじて受けましょう。
そうならないように育てるつもりだけれど、後は本人の考え方です。
僕は父に感謝しているので、仕返しはしません。
体罰を受けたことはありましたが、そこに理不尽さを感じたことは一度もありませんでした。
不機嫌ゆえの体罰(単なる「暴力」と言う)は一切なかったし、
そういった状況になる理由も自分自身で十二分に理解していたので
(だったらやるなよ、という話。でもやっちゃうところが子供)。

何にせよたのむぞ息子よ、僕も頑張るからさ。

変なエントリーですいませんね。

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