ルールとマナー|車と相互利益と人生と。

自由を探して、自分が不自由になっているとも知らずに、
自分の自由で、社会に不自由を作っている。 

秋葉通りの信号機を見るたびに、僕は自由は自由であることだけでは得られないと思う。
自由は、社会における自由は、他人のことを考えない自由は、信号機を増やすんだと。
【ポエム】 秋葉通りの信号機 – 背後からハミング

皆がマナーを守ればルールは要らない。
隣にいる人の事、目の前にいる人の気持ちを互いが考えられれば、ルールは要らない。
しかし、「町内会」、「市町村」、「国」、「世界」と、その社会枠が大きくなってくると、
人は「目に見えない人」の気持ちになるのは難しい。
だから条例や法律というルールができる。

これだけ価値が多様化し、互いの相互利益が成立しにくくなると、都度相手の気持ちを考えるのが難しい。
考えて、行動しても結局相手の要望と異なるケースが増えている。
それならばいっそ、「自分の思うようにやろう」となる。

そして互いの利益争いの結果、そこに目に見える形で衝突が起きてしまうと、それを防止するためのルールが策定される。その策定されたルールで不利益を被る人がまた増えて、彼らもまた「自分の思うようにやろう」となる。そして新たなルールができる。その連鎖。

世の中の一側面であるビジネスサイド(仕事)では、かなりタイトな応酬が繰り広げられる。法の目をくぐり、穴を見つけて、利益を上げる。これもいわゆる「企業努力」の一つの在り方といえる。「法律で禁止されていない」のだから実質的に裁くのは難しいケースも多い。もっとも時にはライブドアのようにやりすぎて吊るし上げられる事もあるが。そして後手の法整備がなされ、同じ手法で利益を出せなくなる。その繰り返し。
本来であれば紳士協定という名のマナーの下でビジネス展開をするのが良しとされるのかもしれない。しかしここまで地球もマーケットも小さくなってしまった以上、また、某国のように「生き馬の目を抜く」ような熾烈な市場原理が日本にも上陸している以上、そんな悠長なことは言ってられない。全てのビジネスマンは「明日はわが身」の気持ちでタイトロープを渡っている。

それはもうしょうがない。その流れを断ち切るのは実質無理と言わざるを得ない。

ただ、その考えが日常生活サイドにまで流れ込むのが苦しい。というか、仕事と生活、オンとオフの境目が朧げになっている現代社会では、「オンとオフで気持ちと考えを切り替える」などと言う事自体がすでにナンセンスなのかも知れない。

世の中から信号機が無くなる時がくるとすれば、それは車からアクセルもブレーキもハンドルも消えて、
どこか衛星上から車の動きを第三者に管理されるような時代であるのかもしれない。
しかし、そうなってしまうと僕らの存在意義って何?という話になってしまわないだろうか?
自分達で判断してアクセルを踏んで、ハンドルを切って、細道から車が出てきたら入れてあげて、おじいちゃんが信号無しの横断歩道を渡ろうとしたら止まってあげて、そうやって自分で判断を積み重ねる毎日を送るということが「生きていく」というのではなかろうか。

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