しこたま蹴り飛ばしてやりたい|大阪で起きたネグレクトの件

実にやり切れない気持ちになります。人として、親として。

大阪市西区のマンションで、23歳の風俗店従業員の母親が3歳と1歳の幼い姉弟を部屋に置き去りにして餓死させた。

 死体遺棄容疑で逮捕された母親は昨年5月に離婚し、2人の子供と暮らしていた。「ご飯をあげたり、お風呂に入れたりするのが嫌になり、子供なんかいなければよかったのにと思うようになった」「自分の時間がほしかった」と供述しているという。
asahi.com(朝日新聞社):「泣き声」通報3回、相談所訪問でも救えず 2児変死 – 社会

自分が子育てをする立場になる前はこの手のニュースを見ても
「あぁ、また無責任なバカ親がでたか。自分が死んだら良いのに。」
なんて呟いて終わってたのだけれど、今自分の手で子育てをする立場になってみたら、ちょっと感じ方が変わってきました。
悲しくなるのです。涙も出そうになります。それは親に本能的に求める「愛情」を十分に与えられなかったり、無条件に信頼している親に裏切られたという子供側に対する悲しみでもあるのですが、と同時に「何で?」「どうしてそんな事ができるの?」という驚き、自分の中にはそれに対する答えがさっぱり見当たらないという親側に対する悲しみでもあります。

実際、子育ては大変だ

僕自身も親として日々暮らしていて、考えてた以上に大変な事も多いです。妻ほどではないけどそれなりの時間を子育てに費やしているし、その結果、いわゆる「自分の時間」を確保するのもなかなか骨が折れます。子供を寝かしつけていたらいつの間にやら自分の方が先に寝てた、なんて話はしょっちゅうです。そして当然妻は僕の比じゃないくらい大変です。あんな怪獣のようなエネルギーの塊に24時間(授乳もあるので)付きっ切りの生活なんだから。そりゃもう腕も逞しくなります(←あ、ごめん)。

でもそれ以上に楽しいし分け前もある

ただ、そんなのは瑣末なことです。子供を育てて育ってるのは子供だけじゃない。僕ら親だって育ててもらってる。いっぱいいろんな事を教えてもらってるし、何より「生きがいや楽しみ」を貰ってる。今のところは僕自身の中にあるガソリンだけで自分自身をドライブできてるつもりだけど、今後は子供の笑顔や、寝顔、これからもっと取れるようになるコミュニケーションでもらえる幸せをガソリンにして自分をドライブしなきゃいけない時だってきっと来ると思うし。分け前も沢山貰っています。

でも二人でこれなら、ひとりだともっと大変。というか無理。

ただやはり、この毎日の子育てを親一人でやるのは至難だと断言できます。少なくとも今の僕の状況では出来ないだろうし、妻にも無理だと思う。今は二人それぞれが役割を分担してなんとか機能してるけど、この役割がどちらか片方に圧し掛かるなんて想像できません。
まだ小さいから手と目を離せない時間も長いし、それと同時に経済的基盤を維持するのも難しい。恐らく行政の補助だけだと全ては賄えないと思います。今回の事件の母親がプライベートでの時間を確保するために夜のお仕事を選択するというのは今の時代の女性としては自然な流れとも考えられます。ただ、時間とお金の使い道は完全に誤ってしまいましたが。

基本的な責任は当然母親にある

では、何故このような事件が起きてしまったのか、そしてその責任はどこにあるのか?
今回の事件が起きてしまった背景や責任の所在についてですが、ベースとしてもちろん母親に責任があると僕は思っています。まず、人として、そしてそれに加えて母親としてあまりに考えが稚拙すぎる。

「ご飯をあげたり、お風呂に入れたりするのが嫌になり、子供なんかいなければよかったのにと思うようになった」
「自分の時間がほしかった」
「大阪に転居した1月から日常的に子どもを置き去りにした」
2児を部屋に放置したまま、数日間家を空けることもあった

などという子供にとっての母親としての立場を完全に放棄し、自分自身だけを優先するような身勝手な供述や行動が出ています。そういったことから考えると彼女には「母親としての能力や努力そして自覚」がかなり不足していたと思われます。そしてそこについては多いに社会的責任を問われることになるだろうし、僕もそうであるべきだと思います。

しかし行政にも責任はある。

では母親だけの責任かというとそうとも思えません。「事故を未然に防止する立場」としての警察や、「保育に関わるサポートをすべき立場」の行政も出来ることを全てやったのか、という疑問が多いに残ります。
二人の子供の泣き声に気がついていたマンション住民が市や警察に何度も連絡しているのにも関わらず、彼らは数回マンションを訪れてインターホンを鳴らしただけ。もちろん応答などあるはずもありません。その後は部屋に入って状況の確認をしないまま放置しました。

センターは警察に連絡していなかったが、「『助けて』『虐待が行われている』などという緊迫した情報がなく、通報するほどの緊急性があるという認識がなかったため」と説明している。
asahi.com(朝日新聞社):「泣き声」通報3回、相談所訪問でも救えず 2児変死 – 社会

もうさ、馬鹿じゃないの?と思います。その状況が切迫しているものなのかどうかを確認するのはあんた達の役目でしょうが。緊急性が無いかどうかは現場を見てから判断するんでしょうが。とんだ役人仕事です。
部屋の借主から母親の勤務先を割り出して連絡することも可能だと思われたにも関わらずやっていません。形式的な行動で書類用のアリバイ作りをしただけのように感じられます。
もし彼らがなすべきことをしていたらもしかしたら結果は違っていたかもしれません。手続きを踏んで親権を移したり、子供を施設に預けたり、そして母親だって更正プログラムを受けることもできたかもしれません。もしもそういった権限が自分達に不足しているというのであれば付与すべきでしょう。なぜならこういったケースに対応するのが彼らの仕事であるはずなのに、「その権限を与えられていない(からできなかった)」というのはおかしな話ですから。必要性を判断し、場合によっては大家さんの協力なりを得て家屋に入る、現状を確認する。虐待や育児放棄の可能性が考えられる場合は子供の保護を最優先にして行動する権限を持たせて良いはずです。そのかわり、権限に応じた責任は負ってもらいます。もしすでに権限を持っていたのだとしたら行政人として許されるべきではありませんし、もしも役人マインドでその権限と責任を持つことを拒否するのであれば、その権限をもつ別の部署や組織を用意する責任がやはり行政にあります。

行政がすべきこと

じゃ、どうするべきだったのか、今後どうしていくべきなのか、というと、根本的に一番大切なのは「安心して生み、育てられる社会の仕組み」をつくり、それを広く知れ渡るようにすることでしょう。
何かしらの理由で親一人で子供を育てなければならなくなる可能性は誰にでもあります。離婚する可能性、パートナーが事故で無くなる可能性はゼロではありません。また、(例えが相応しいかは置いておいていただきたいのですが、)重い病を患ってしまい先が長くないことが分かってしまっているパートナーとの絆としてどうしても子供をもうけたいという想いがある場合だってあると思います。そのような時に「親一人でも子育てをしていけるという安心感」もしくはそういった仕組み、セーフティーネットを用意するのがこの分野における行政の最大の仕事なのではないでしょうか。

「親二人でなんとか育てていける」それが「親一人になると途端に子育てが辛くなる」に変わってしまう、そんな社会で誰が子供を生もうなんて思えるでしょうか。出生率の低下に対する対策をするのであれば、その根っこにある「育児環境の改善」を改めて見直すべきです。
実弾配布的な育児給付金も確かに効果はあると思います。所得制限を設けずに、誰にでも「一律」に配布することで実施までのスピードも速かったし、おかしな既得権益を作り出すこともなかったし、その結果、特定の団体に無駄な税金ががっぽり流れ込む事も無かったのは良かったと思います。
でも、それは同時に「思考停止の結果」としての施策にも思えます。お金をそのまま配るのなら子供でも出来ます。大人として、地域から回収した税金を使って社会の仕組みを構築している行政人としては、
「10のお金から少なくとも10以上の価値を生み出し、その後も定期的に10以下のお金を予算することでその10以上の機能を維持していく仕組み」を考え、敷設するのが本来やるべき仕事です。
定額を出し続け、それが終わった瞬間に効果も終わり、みたいな施策はエコポイントと同じです。その場限りのインスタント施策は無能の証です。

安心して外も歩けないよ

先日までは外を歩いている時に通り沿いの建物から赤ん坊の泣き声が聞こえてくると
「おっぱい欲しいのかなぁ」とか、「オムツ替えて欲しいのかなぁ」なんて楽しい想像しながら歩いてたのに、今回の事件以降はそれが一転、不安な気持ちからドキドキしてしょうがありません。そんな心持ちになってしまっただけで十分に僕も今回の事件の間接的被害者だよなぁ、なんて思ってしまいます。

最後に

いろいろ書きましたが、すでに書いたとおり、本件は基本的にはやるべき事をやっていない母親の責任だと僕は思っています。ほんの少しだけ同情しないこともないのですが、それを差っぴいてもこの件については個人的にしこたま蹴り飛ばしてやりたいところです。かわいい自分の子供を自分一人の都合でこんな悲しい結果にしてしまうなんてどうかしています。僕には想像がつきません。そしてそんな心境になってしまった経緯が僕には理解できないがために、そして少しでも理解できるようにするために毎回辛い思いをしながらニュースの続報に目を通しています。昔のように「あぁ、また無責任なバカ親がでたか。自分が死んだら良いのに。」と一言で片付けて思考停止して、バラエティ番組に逃げないのが、同じ社会で生きて、この先もこの国で生きていこうと思っている僕がするべきことなのかな、と勝手に考えています。

ただやはり、「生んだからには自分で育てろ」という通り一遍等な自己責任論あまりに厳しすぎます。さまざまに状況が変わっていく中、それぞれが自分のすべき事をしっかりとやる努力をした上で、それでも尚困った時にはお互いに助け合えるような社会を作れるような努力も継続していかないとこの国は本当に残念な感じになってしまいそうです。

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