コーディネートはこうでねーと|Less is moreの難しさ

死んで詫びます。でも一度は公衆に向けて発信すべきオヤジギャグです。
しかもいつものように思考と作文の同時進行の結果、最後は衝撃的な着地点になりまして、我ながらおどろき。
文章は長いのでご注意ください。

スタイリングへの工程2つ+1つ

さて、
コーディネイトを可能にする力:DESIGN IT! w/LOVE
というエントリーを読ませていただきました。
このHIROKI tanahashiさん、最近知って読み始めたばかりなのですが、いきなりtwitterとブログの断筆宣言をされてしまいました。デザインに対するあまりの造詣の深さに常に脳みそCPU100%で読ませていただいていたので残念な限り。なので「やめないで!」とここでこっそりtweetしておきます。
また、この先を読む前に先に一度、上記の
コーディネイトを可能にする力:DESIGN IT! w/LOVE
を読むことをオススメします。私自身、かなり難解な迷路にハマりながらのエントリーなので、これについては引き続き考えを継続していこうと思っています。

スタイリングということを考えた場合、スタイルをつくり出す方法としては大きく次の2つがあると思います。

1. 単独のモノの形をデザインする
2. デザインされた複数の単独な形をコーディネイトする

もちろん、2.は、1.がその前提にあって可能になる。かといって、1.が単独で日常に存在することはほとんど考えにくく、ほぼ必ず2.の必要性が生じます。その意味で、1.と2.の関係は単純な主従関係ではないでしょう。

また、違う見方をすれば、1.はモノをデザインするデザイナーの領域、2.はデザインされたものを日常的に使用する僕ら生活者自身の領域だといえるでしょう。

はい。異論なし。そして、彼はこの後、ドナルド・A・ノーマンの言葉を借り、2のコーディネイトというフェーズもデザインの延長とし、「我々は皆デザイナーだ」としています。
そこにも異論は無いのだけれど、あえて僕の考えとして追加するとしたら

3.単独のモノに手もしくは視点を加え、新しい機能、もしくは1.のデザイナーが意図していなかった使い方をする

というオプション。
「形態は機能に従う。(form follows function. )」としたルイス・サリヴァンの考え方からすると、特定の機能を有する形態を作り出したデザイナーの仕事に、ユーザーが何かしらの方法で別の機能を付加したとしたらそれはすでに本来の形態(デザイン)とは異なる解釈を持ち、新しいデザインを手にしているということ。それがたとえ、「箱型のイスをひっくり返して、オモチャ箱として使う」といった単純なものであっても、「『視点』という新しい手を加えて別の機能を付加させた別のデザイン」といえるのではないでしょうか?これは実際には1の「単独のモノの形をデザインする」への追加作業のようなものになるので、つまるところ「僕ら生活者自身」も1.の「単独のモノの形をデザインするデザイナーになりうる」ということ。

で、ちょっと話は飛びますが、次。

「モノを減らす」イコール「シンプル」ではない

“Less is more.”
ところが、どうも、このコーディネイトを回避しようとする傾向があるように感じます。今にはじまったことではありませんが、「シンプル」というキーワードの元に、できるだけモノの数を減らしたり、モノを見えないように隠したりして、コーディネイトの機会を減らす方向に向かう傾向があります。

部屋はごちゃごちゃしているより、あまりモノを置かないすっきりした空間が好きだとかという感覚は、純粋にシンプルなものが好みであるのなら問題ありませんが(「純粋に好み」という状態がどういうものかはよくわかりませんが)、それがコーディネイトを苦手とする意識の裏返しだったり、デザインされた個々のモノが別の異質な表情をもったモノとのコーディネイトを拒むような懐の狭いスタイリングになっていることが多くてコーディネイトしにくくなっていることが原因だとしたら、それは本質的にはデザイン思想上の問題なのではないかと思います。

ギクッ!どこから僕のことを観察してたんだ、と思わず口走ってしまうような鋭い指摘。
今まで気づかないふりで無意識下に置いておいたモノを一気に表層まで引き上げられた感じです。
まさにそうだと思う。年々、色のトーンを合わせるとか、素材を合わせるとか、簡単な方に色々なコーディネート作業が集約されていくのを自分でも薄々気はついていた。
つまるところ「面倒」になっちゃう。その行き着く先が「アイテム量を減らす」という究極解。
最低限の装備にしておけば、それぞれが喧嘩することもそもそも無かろうという逃げの理論。
それは代表的なコーディネート作業といえる、服装、部屋のインテリア、その辺もろもろ全てに該当。

物が多すぎるとごちゃごちゃしているからできるだけ隠したいという感覚は、シンプルとは違うはずです。むしろ、それは先に書いたような意味でコーディネイトを不得意と感じる意識の隠れ蓑になってしまっている。ミースの提唱したモダンデザインのユニバーサルスタイルはそこでは大きな誤解のもとに濫用されています。

そ、その通りです。反論の余地、まるでなし。
シンプルは難しい。シンプルこそが素の能力を一番に試されるフィールドです。塩ラーメンです。

コーディネート論

個々の物の意匠がそれ単体でもしっかりとした存在感をもつシンプルなデザインだったりすると、異質なテイストが混在していても、全体がぼんやりしないし、その中で個々の物同士がたがいに負けない存在感を発揮して、全体が引き締まって魅力的にもなる。実はむしろ、こちらのコーディネイトのほうが、質素な物をテイストをあわせてうまく見せるよりも楽だったりします。味のある古着やデッドストックの服などを現行品の個性ある服と組み合わせたほうが実はコーディネイトは楽なのと同じ。はたまた個性ある人同士の集まりのほうが、異なる分野なんだけど個性のない平均的な人が集まって何かをするよりも意外とうまくいくのとも似ています。

これまた同意。要は質素な服ばかりで身をかためても駄目だし、個々の洋服が頓珍漢なベクトルにぶっとんでるのも問題です、という事(で正しい認識かな?)。

ここからは服のコーディネートを例に話を進めるとします。
例として皆さんご存知の無印良品で上から下まで一式を揃えてみましょう。
そして、それらのパーツを「好き・嫌い」という主観ではなく、

『アイテムの色や、シルエット、素材等の要素から総合的に生み出されるアイテムの存在感』

を数値化してコーディネートしていく事とします。
数値のふり幅を0~10とし、無印良品というブランディングイメージからそれぞれのアイテムの数値を平均的な5とします。すると
「帽子+インナー+アウター+パンツ+靴下+靴+バッグ」という組み合わせの総量は、
「5+5+5+5+5+5+5」=35
になります。ここで勘違いしないようにしていただきたいのは、これは「スタイリングやコーディネートの得点が35点」ということではなく、あくまで「存在感」の数値化だということ。「良い・悪い」の話ではありません。
それに対して、それぞれが異なったベクトルに飛び出しているアイテムをコーディネートして選んだ場合、仮に「4+10+2+7+3+8+1」とするとスタイリングの総量はやはり35。
全体としての数値は一緒です。しかし全体としてのぼんやり感は無くなります。無印良品のアイテムに比べて個別のアイテムがそれぞれに主張する数値を持っており、また、それぞれの数値的なギャップも大きいからです。ただし、全体としての総量は変わらずなので特に「うげっ、目ざわりだ。」という感想はもたれにくい。

一方、選定するアイテムに組み合わせによっては、
「9+14-7+6-7+19+14」というチョイスをすると合計48。
これだと35に比べると総量が大きく、「くどすぎる」とか、「ケバすぎる」とか、そんな印象を受け取られる場合もある。

これは無印良品が良い悪いの話ではありません。むしろ僕も無印良品が大好きですし、無印良品の商品は日用品も衣料もたくさん使わせていただいています。お菓子も食べますし、グリーンカレーも作ります。
また、「どんなカミングアウトか!」とお思いになるでしょうが、僕自身はこの「数値化」にそってコーディネートしているわけではありません。実際の僕は感覚でコーディネート作業をしていますが、その感覚を分かりやすくするための方法としてこういった「数値化」という表現を使って説明をしています(自分でも書きながら無理言ってるなぁとは感じていますが)。僕の場合、アイテムがもつオーラ、後光、雰囲気、そんな目に見えない感じの存在感の組み合わせで服を組み合わせます。超キモいですね、すいません。

問題点

ここまで書いておいてなんですが、この考え方には二つの問題があります。
一つ目は、それぞれのアイテムの「評価」です。つまり当然の話ですが、見る人の主観によってそれぞれのアイテムというのは評価が異なるわけです。洋服のタグに評価数値が書かれているわけではありません。
むしろそういった明確な基準がないからこそ、ここは自分自身の目を信じるしかない。それこそがコーディネートに求められる能力のひとつだとも言えます。
「ちょっと派手な靴履くから…」とか、「バックがちょっと地味だから…」っていうのはあくまで僕の主観で判断したものであって、人によっては「普通」にもなりえます。その小さな差異が積み重なって人としての「個性」を生み出していくのです。

次に二つ目として、組み合わせるアイテムの総量の見極めです。こちらもまた、自分自身との兼ね合いですが、人それぞれに適切な総量というものが存在するのです。「服に着せられている」という状態を避けるためには「着る本人」と「着せられる服」が均衡の取れた状態であることが求められます。「あの人に似合うコーディネート」をそのまま取り入れても、アナタに似合うとは限りません。上記に上げた35点というのが適切な人もいれば、48点という総量がフィットする人もいるのです。

そこは自分の目で見て自分で判断して、コーディネートの際にバランスをとりながら各アイテムが活きるようなチョイスと組み合わせを実践するのです。それが「コーディネート」という作業の本質なのかな、と思います。
そう考えると、コーディネートに必要な能力というのは、

1.モノの意匠に対して適切な評価を行うという能力
2.それらを自分(もしくはコーディネートする対象)に対して組み合わせる際の適切な評価総量を見極める能力

といえるのかもしれません。また、その前提として自分の体型やキャラクター、「こうありたい」と願う自身の姿の自覚が必要になるため、「己を知る」というなんとも哲学的な領域にも足を突っ込みかねません。
たかがファッションコーディネートなのに(ここではあえてそう言わせて頂きます)、哲学だなんてどうかしてると自分でも思うのですが、ファッションを「自己表現」の方法として捉えた場合、それも必然と言えます。部屋のインテリアについても同様で、どこかおのずと生活空間には「自分らしさ」というものが出てくるものです。

デザイン・コーディネートの力を養うには

デザインもそうですが、コーディネートというのもまた、相当量の時間を費やして能力を養っていかなければいけないものだと思います。服装のコーディネートに関しても部屋のレイアウトに関しても、トライアンドエラーを積み重ね、それを繰り返しながら、少しずつ自分なりの方程式のようなものを身に付けていくものです。それが遠回りに見えて一番近道だと思っています。勉学やスポーツの上達ステップと同様に、問題や課題を一瞬で解決するウルトラCなど存在しないのです。
そう考えると自分が中学生の時に着ていた真っ赤なシカゴブルズのスウェットや、大学の時に使っていた自分で塗装した家具もまた、今の自分にたどり着くための大切なステップだったのだと思えます。というかむしろそう思わせて欲しいところです。

最近、洋服のコーディネートを上から下まで一式やってくれるネット通販などもありますが、ちょっとどうかと思います。それって大切な工程をすっ飛ばしてますよね。「選ぶ目と組み合わせる力を養う」という大切な機会損失です。そもそも洋服に興味がない場合や、すでに自分の方程式を確立したうえで「どうしても時間がない」というのであれば話は別ですが(確立してる人はそんな買い方はしないと思うけど)、どう考えてもすぐにボロはでると思います。セットで購入すると、その組み合わせでしかその服を着れない気がします。

多忙と国民性

ここからとんでもないまとめに向かいますが、これってもしかして「日本人は忙しいから」ではないでしょうか?
「コーディネートとか、そんなことに時間費やすくらいなら風呂入って寝るわ」とか聞こえてきそうです。トライアンドエラーなんてしてる時間と余裕なんでないんですよね、みなさん。
エラーを発生させるくらいなら「自分らしさとかどうでもいいからエラーだけは起こさない組み合わせ」を選んでしまうのだと思います。
部屋もそう。「自分らしさとか、おしゃれとか求めないから、使いやすくて嫌われない、無難な感じでお願いします」と。
そもそも「自己表現」のフィールドに服や部屋のコーディネートを選ばず、そこは「周りと比べて無難であれば良し」とする考え方です。「じゃ、どこで自己表現するの」という疑問はさておきです。

もう一つは国民性。「右にならえ」「出る杭は打たれる」と、何事も普通であり、「皆が等しく幸せである」総中流社会を長きに渡って標榜してきた国民性が、こういった「無難万歳」という回答を無意識に選択させているのかな、と。

ちなみに、僕がオーストラリアでホームステイしていた家の壁の色はリビングがクリーム色で、娘(3歳)の部屋はピンク、息子(5歳)はブルー、パパとママの主寝室はどぎついパープルでした。それはもうごっつかったです(笑)。
パパと息子で休日にローラーで塗装してました。僕も滞在中に手伝いました(様子はコチラ)。
これは一つの大げさな例えではありますが、パープルの壁の良し悪しは別として、こういうことができるような時間的ゆとりがないと養えないのがコーディネート能力なのかもしれません。

「豊かな文化は豊かな国に育つ」ではありませんが、なんだか、ここまで考えてたら切なくなってきました。
上記に挙げた僕のコーディネート論やパープルの壁色は別にして、日本にももっと色んな服装や、イカれたインテリアの人がたくさん増えたら面白いのに、と思います。そういった多様性とそれらを許容する懐のある社会から生まれるモノってビジネスチャンスも含めてたくさんあるような気がします。だからNYってアーティストが自然と集うのだろうし、さまざまなビジネスも生まれているのではないでしょうか?
この閉塞感に満ちた日本経済を救うのは各個人が自由に振舞い、さまざまな表現をできる時間の確保であるのです、総理。
連休の地域分散なんて頓珍漢な案をブチあげる前に、基本の動労時間をしっかりと管理することを実践することが先決です。日本人なんていきなり連休貰っても使い道に困るんですから、日頃の就業後時間の使い方という基本からやっていくほうが効果あると思いますよ。

あらら、ただの親父ギャグが、とんでもないところに着地してしまいました。
どうもすいません。
この件、できれば皆さんの考えを聞かせていただきたいです。
長文のどこを摘んでも結構です。たとえば「タイトルがヒドイ」とか。
ぜひぜひコメントをお願いいたします。

2個のコメントあるよ

  1. どーも
    お久しぶりでこざいます。
    失礼ながら久しぶりに拝見させていただいております。

    興味深い記事だったのでコメントを少し。
    コーディネイトじゃなくて、平面デザインのこと(種類的には同じようなもの?)なんだけど、
    自分はあまりデザインに関して、理論で考えるのは苦手で嫌いです。でも、気になっちゃうので調べまくって、結局迷走して手が止まり続けてスタートすらしないで時間が過ぎて、イライラしてらちが明かないと気付いて、手を動かし始めて、動かして動かして動かしていくうちに、ああ、こういう風にしよう、と初めて方向が決まって、その方向でやっていくうちに理論で考える頭が働き始めて、すぐにそれがまた邪魔になって、手が動かなくなって、らちがあかなくなって(以下この工程を数回繰り返す)最終的にできあがったものが、じっと見てみて、どこにも違和感がなければおk、みたいなことが多々あります。
    最終的には自分の見る目を信じちゃっているあたりが、恐ろしくてなりません。
    たぶん悪いやり方だと思われる。
    だからなんというか、シンプル=物が少ない ←こいうのすら考えない。
    要素が多い少ない以前に、シンプルに見えたらOK、というとてもいい加減ともいえるやりかたなので、こういう記事を読むと、自分が能足らずで恥ずかしいかぎりです。
    綿密に計算とかも苦手だからしないんだよなぁ・・・。

    なんか的外れっぽいコメになっているような。。。

  2. >自分はあまりデザインに関して、理論で考えるのは苦手で嫌いです。
    僕はデザインはアートではないので、感覚ベースで進めるのは極力避けてます。デザイナーの趣味主観が強くでると、いろいろと不都合なことも出てくるので。
    でも理論で組み立ててばかりだとつまらないので結局感覚が大活躍することも多いです。

    >迷走して手が止まり続けてスタートすらしないで時間が過ぎて、イライラしてらちが明かないと気付いて、手を動かし始めて、動かして動かして動かしていくうちに、ああ、こういう風にしよう、と初めて方向が決まって

    いや、そうだと思う。僕も最初のとっかかりってそんなところです。とりあえず何かやらないと動かない的。

    >最終的にできあがったものが、じっと見てみて、どこにも違和感がなければおk
    コレ大事。「良いデザイン」への加点よりも、「良くないデザイン」からの減点のほうが避けておきたい。パッと見て違和感が伝わってしまうと、マイナスからのスタートになっちゃいますもんね、それは避けたいところ。

    >最終的には自分の見る目を信じちゃっているあたりが、恐ろしくてなりません。
    いや、僕もそうです。だからこそしんじられるように頑張らないといけませんね。お互い頑張りましょう。

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